ある臨床心理士のココロノウチ

自分自身の自己一致をめざして、なるべく心の中を正直に、思ったことや感じたことを素直に記して行こうと思います。

春のゆううつ

毎年、春が近づくと憂うつになるのは、私の場合、夫の死を思い出すからだ。

3月半ばに夫は病気で亡くなった。入院してから10日目のことだった。50歳の命だった。退院後の生活について医師と話していたにも関わらず、容態が急変した。

亡くなる数日前に、夫が自分でするはずだった確定申告を、私が代理でギリギリ済ませた。

今は、私が自分の確定申告をするようになり、税務署に行く季節が来ると、当時のことを思い出す。

亡くなった人は、生きているとき以上に、私の心の中にいるような気がする。

先に亡くなる人は、少しうらやましい。ずるいような気もする。

死を持って、生きている人の心に棲みつくような気がするから。

私は無精者なので、仏壇に供え物などはあまりしないし、なんなら、お茶も変えないことさえある。でも、1日として忘れたことはない。心の中では、いつも会話している。

あと何十年、私はこのような生活をして生きていくのだろう。

未来は分からないけれど、命のある限りは生きていく。

春は私にとって、いろんな感情の波が打ち寄せてくる季節なんだなぁ。

 

贖罪と謳歌の人生

働く人を大雑把に分けると、2種類あるように思う。

役割を仕事にする人と趣味を仕事にする人。

かなり強引な分けかたとは思うが、ふと今思う、私なりの分類の仕方。

私はといえば、役割を重視する方だ。人の心の面で、何らかの役に立ちたいという役割。

でも、役割を仕事にすることは、辛さや疲労を伴う。

趣味を仕事にしたとしても、辛さや疲労はあるかもしれないが、今の私は、何かうらやましさを感じる。

役割を仕事にする人は、私の前世に対する考え方だが、前世での罪をあがなうために、辛くても、がんばらなくてはならない人生。自分の中に、自分の愉しみだけを追求してよいとは思えない、何か根本的な罪の意識のようなものがある人生。

一方、趣味を仕事にする人は、今生の人生を精一杯楽しむために、自分の好きなことを追求していく人生。自分の好きなことをして、人生を謳歌することが、周囲の人にもよろこびを与えていく人生。

できれば後者のように、仕事を苦と思わず、楽しんで取り組めて、そのことがまた、周囲にもよろこびの連鎖を広げていくような、そんな仕事ができたらいいな、と思う。

でも、今のところは前者だ。

今生で、前者から後者へと変わっていく可能性もあるかもしれない。だとしても、まだもう少し先のことだろう。

最近、テレビを見ていて、自分にピタッとくる言葉があった。

それは「修行」。私も修行に行きたいと思った。

しばらく、自分にとっての「修行」を探すことになりそうだ。

 

 

セルフアウェアネスの講座に出てみた

知人の紹介で、たまたまセルフアウェアネスの初級講座に出ることになった。

一日の講座で、テキスト代を含めて2万円近く支払った。

MBTIというユングの類型論を元につくられた16タイプの性格診断も事前に行い、講座でその解説も受けた。

私自身は現在、定期的に教育分析を含むSVを受けているし、自分自身のことは大学院などでの学びを通して、かなり見つめてきたと思う。しかし、さらに自分のことを知るのに、よい機会になるかもしれないと思い、この講座に参加した。

果たして結果は、やっぱり自分のことでさえよく分からないものだ、ということがよく分かった、という感じだった。

たとえば自分は、外向的なのか、内向的なのか、という問い。私には、そのどちらもあるし、どちらにもあまり偏っていない、という気がする。講座を受けても、結局どちらなのかは分からないし、そんな二者択一で決められることではないんじゃないか、ということをしみじみと感じた。

ただ、自分はどちらなんだろうと深く考えてみること自体は、とても意味があると思う。

 

春から臨床心理士という肩書を持つにあたって、考えたことがある。臨床心理士という資格を、自分なりにどう説明するか、ということだ。

数日前、散歩をしながらよくよく考えてみた。そして、今の私はこう思う。

臨床心理士とは、人の心は分からないものだ、ということを分かりながら、人の役に立とうと努力を続けている人の資格」なんじゃないかな、と。

今春から臨床心理士に

昨年末に、臨床心理士資格審査の合格通知をいただき、今年春から、ようやく臨床心理士となる。

ここまでの道のりを思うと、とても感慨深い。

そのことは、おいおい書いていくとして、「臨床心理士の資格が取れたらどうするか?」という自分自身の問いに対して、このブログ開設をしてみようと思い立った。

ロジャーズの3条件の中でも、私がとても難しいと感じている自己一致。臨床心理士の過去問を勉強しているときに、自己一致について解説に「自分の経験している感情に気づいていることであり、クライエントに対して純粋に自己開示する、ということではない」(平成26年)とあった。その時、そうなんだぁ、と改めて思った。

現在私は、スクールカウンセラーや調停委員など、相談に携わる仕事をしているが、自分の経験している感情に気づくことや、またそれを、浄化していくことの難しさをとても感じる。

とくに、相談の仕事には守秘義務があり、簡単に表に出すことができないというのも大きい。表に出さないことを自分に課していると、自分の感情にも気づきにくくなるし、だからといって日常的に、誰かに話すこともできない。SVやカウンセラー仲間との語らいの場が多少はあるものの、大方は自分自身で処理したり清めたりしなければならない。これまで私自身は、夕方の愛犬との散歩で、自分自身の心の内を見つめながら、海に沈む夕日を見て、清めてきたように思う。

それはそれで、有効のような感じはしているが、資格取得を契機に、ココロノウチをしっかり言葉にしてみようと思う。

そのためアノニマス(匿名)で、筆者「こもれび」として記そうと思う。決して無責任に、グチや不満を書こうと言うわけではなく、臨床心理士としての自覚や責任を大事にしながらも、私自身に自由になるために、考えたタイトルなのだ。